学生さんへもっとたくさん伝えたかった 僕の伝えたいこと

九州リハビリテーション学院へ講話に行ってきました。
だけど、講話をする時間が決まっていて、話したいことを全部話せなかったので、
このブログでもう少し自分のことについて書きます。

 

当時4歳、大晦日の日に僕は、家の近くで
交通事故にあい、救急搬送され病院へ運ばれました。
意識不明で心拍停止。

心拍停止の時間が長かったため当時担当になった医師から
「もう意識が戻らない。」と宣告されたそうです。意識が戻った僕には、高次機能障害という障害が残りました。

父は障害名を聞いて、離婚することを決めたそうです。
その後、右半身まひが残り、両足は感覚がなく歩けないのと右利きだった僕は
それから2年半ぐらい歩行訓練と右利きから左ききへのリハビリを頑張りました。

左側の頭の骨が入っていないため、地元の学校へ戻る前に幼稚園の途中から
小学2年まで養護学校へ行くようになり、小学3年から地元の小学校へ転校しました。
高校3年の18歳までヘルメットをかぶったままの生活で、夏場は焼けるほどの暑さで、毎日が大変でした。高校卒業後、学校のすすめで就職して、1年ぐらい働きました。実家から職場までとても遠くて辛かったです。その間に、元気だったばあちゃんの認知症がひどくになりヤングケアラーになってしまいました。

父は長距離トラックの運転手で家にはほとんどおらず、前の職場から終わって帰ると遅くなることが多くて、高校の同級生の友達に相談すると「おれんじ村でいいんじゃない?ぜひ、来てみて」と言われました。
その当時、一番困ったことは、電気ガス水道がよく停まったことです。おれんじ村に入社する前まで【福祉】ということを全く知りませんでした。
入社後、今のつれ合いと出会い仲良くなり、付き合うようになって、とにかく嬉しかった。一度別れることになって、おれんじ村のみんなに、とても迷惑
かけてしまったことを今でも忘れません。
熊本大震災の頃に自分とばあちゃんとの生活が大変で、貸しアパートも被災して危険な
状態であることと、祖母にごはんを食べさせていかなくてはならないという理由で、近場の施設へショートステイで一時お世話になりました。そんな大変な状態でも、よりを戻したいという思いは強く、クリスマスの日に念願は叶い、私たち2人再び付き合いが始めました。
好きな人と一緒になりたいという気持ちは健常者も障害者も当たり前のことだと感じます。障害の有無にも関わらず、恋愛や結婚。

家庭を持つことが僕にとっては夢でした。小さい頃ほとんど、

家庭だんらんを経験せず、家族で出かけたりすることも少なかったので
「今、私は幸せです。」
今は、家族3人で毎日食卓を囲みながら色んなことを話したり遊んだりしながら

やってます。

自分たちで出来ないことはヘルパーさんに手伝ってもらっています。
今後、私たちみたいに、(健常者も障害者も関係なく)恋愛結婚、出産子育てができて
当たり前の社会になることを願っています。

介護というのは、とても幅が広く、人それぞれ個人差があります。
障害のある人の生活には訪問のサービスはとても大切です。私たちも多くの
サービスを受けて生活しています。
支援をする人だけでなく、利用する私たちもサービスについて考えることが
大切だと感じています。
講演で学生さんと同じ立場で考えれたことが、私はとても嬉しかったです。


ミーモン